キングダム戦国の七雄(最終話)7話ネタバレあらすじ&視聴私感

中国時代劇「キングダム戦国の七雄」

500年以上も続いた春秋戦国時代の終焉と大秦帝国誕生までの壮大な物語

人気漫画「キングダム」の舞台となっている春秋戦国時代末期、大陸で覇を競った戦国七雄の興亡をリアルに描いた本格派歴史ドラマ!!!

燕国篇、趙国篇、楚国篇、韓国篇、魏国篇、斉国篇、秦国篇の全7話構成され、それぞれの国と王にスポットを当てたドキュメンタリー。

監督・脚本は「復活的軍団(原題)」で多くの賞を獲得したジン・ティエムー。中国の動画レビューサイト「豆瓣」では10点満点中8.1点、中国版「ゲーム・オブ・スローンズ」と称された。

 

キングダム戦国の七雄/全7話あらすじ一覧

全7話で紹介

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ネタバレ私感/キングダム戦国の七雄

趙雍/武霊王(ユー・ロングァン)姫職/昭王(ワン・ジンソン)熊槐/懐王(リン・ヨンジエン)公孫鞅/商鞅(ユー・エンタイ)申不害(ハイ・イーティエン)魏斯/文侯(ケント・チェン)田地/湣王(リー・リーチュン)など

 

7話/秦編・秦である理由

文化面で後れを取り蛮夷と見なされていた秦国、諸子百家を一人も輩出できなかったが後に6国を滅ぼし天下統一を果たす。

 

紀元前425年、19代君主・嬴封(懐公)は大臣たちを率いる庶長の鼂に包囲され自害します。

紀元前385年、23代君主・嬴昌(出公)は母親とともに庶長に殺され深淵に沈められると20代君主・ 嬴粛(霊公)の子・嬴師隰(献公)が迎えられ24代君主となります。

貴族が権力を振るい内乱は絶えず君主はこの40年間、地位を脅かされ、山東の6国は秦を蛮夷と見下し国交を結ぼうとしませんでした。

 

魏を離れる公孫鞅が秦を強国に

紀元前362年、献公が亡くなり太子・嬴渠梁(孝公)が秦国第25代君主が即位、この時、戦国時代初期の覇者は変法を魏国でした。

秦酷は魏国から攻撃を受け存亡の機にあり、嬴渠梁は身内で殺し合ってはならない、臣下と心を一つにして秩序を取り戻すと決意します。

秦人でも山東の者でもよいから国を強くする者がいれば高位に就け土地を与えると宣言し積極的に賢才を招きます。

紀元前359年、嬴渠梁が天下の局面を変える才能を求めているとき魏を離れた士人・公孫鞅が大志を抱き秦にやってきます。先祖の定めた法や上古から続く礼を変えるべきと公孫鞅は訴えると貴族たちは猛反発するが、嬴渠梁は時に応じて法を作り事に応じて礼を定めるべきだと納得します。

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庶民階級に目を付ける公孫鞅は国を強大するには民の力が必要だと思い、法令が尊厳を失わないためにも罪を犯した権力者を罰し貴族階級を弱体化させます。また、畑仕事もせず戦にも出ない士人は知識を振り回し御託を並べるだけだとして一掃し、商売人は税として殻物を納めないので罰として奴婢にさせます。

厳しい新法の施行は国中を揺るがし権力や富のために危険を冒す者もいなくなります。

国家が社会的資源を掌握すべきだと考えすべての住民に登記を行い成人男子で独立しない者は倍の税を課します。移住地の移動を禁じ土地は国から支給し私有地は侵してはいけないものとしました。

国力増強するため人々に農民と兵士になることを求め、平時は田を耕し有事は戦に出るようにし巨大な兵営、農場へと変容していきました。

変法から15年、公孫鞅の率いる秦軍は魏を破り、郡県制の導入、度量衡の統一、咸陽への遷都、新たな形を作り上げ強国に生まれ変わります。

 

内乱の時代

公孫鞅が魏から秦へと移って20年後、嬴渠梁が亡くなり嬴駟(恵文王)が26代君主として即位します。周囲に恨みを買っており国君よりも名が高い事で妬まれ公孫鞅は商の地で戦死します。

謀反を企てたと濡れ衣を着せられ車裂きにされ三族皆殺という結末を招きます。

紀元前310年、27代君主・嬴蕩(武王)が即位、紀元前307年、鼎を持ち帰りたい嬴蕩は力士と挙げ比べを行った際に脛骨を折って急死します。

嬴蕩に子はいなかったために王族たちが王位を狙い始め、燕の人質になっていた嬴稷(昭襄王)が呼び戻されます。秦王になるとは知らずに喜んで帰還する嬴稷は魏冄たちの支援に寄り28代君主となります。

羋八子(宣太后)は中国の歴史上、初めて太后の称号を用い、秦の領土を広げるために十数年も通じていた恋人・義渠国の王を殺します。宣太后と相邦の魏冄が権力を握り太后の弟二人と息子二人は四貴と称されます。

 

戦神

嬴稷は師と仰ぐ范雎から自分が孤立し身に迫る危険に気付かされ、魏冄をはじめとする四貴を咸陽から追放し宣太后を幽閉します。

紀元前260年、長平の戦いで白起は趙を大敗させます。紀元前257年、秦にかなう敵はおらず白起の名は天下にとどろきます。

趙・魏・楚などの軍に数々の勝利を収め、秦の領土拡大に最大に貢献した白起だが活躍は秦王の地位を脅かすものだと范雎は言います。それにより出兵命令を病を理由に拒否した白起は死罪を命じられます。

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天下統一

紀元前239年、昭襄王の死から五年後、孫である嬴政(後の始皇帝)が31代君主となります。嬴政が王になれたのは偶然の積み重ねが生んだ結果であり、それを促したのは元商人の呂不韋でした。

咸陽の街中には「呂氏春秋」が陳列し一文字でも増減できる者には千金が与えられます。

呂不韋は趙太后に嫪毐を献上し周囲には宦官と偽っていました。趙太后は嫪毐の子を二人出産して隠して育てていたが、いつまで隠し通せるのかと不安が押し寄せていました。

紀元前238年、その事を知った嬴政は嫪毐が子を王に就けようと謀反を企てていると知り討ち取ります。そして母を幽閉し二人の子を死罪としました。

紀元前235年、嬴政を秦王に据え800年の歴史を持つ周王朝を滅ぼした呂不韋は3千人以上の食客を抱え「呂氏春秋」を編ませて天下統一の大網とさせました。しかし権威が秦王をも超えていた事で詰問状が届く。

「秦に対し一体何の功績を以って河南に十万戸の領地を与えられたのか。秦王家と一体何のつながりがあって仲父を称するのか。一族諸共蜀に行け。」

呂不韋は自らの末路に絶望し鴆酒を仰いで自殺しました。

 

孝公は商鞅を用いて秦を強大し、恵文王は張儀を用い6国の合従を阻み、昭襄王は范雎を用い強国を作り上げました。

嬴政は紀元前230年に「韓」を滅ぼし、紀元前228年に「趙」を滅ぼし、紀元前225年に「魏」を滅ぼし、紀元前223年に楚を滅ぼし、紀元前222年に「燕」を滅ぼし、紀元前221年に「斉」を滅ぼし天下統一を果たしました。

(公孫鞅も范雎も魏国出身なのよね。魏は戦国初期の覇者だがこんなに優秀な3人を受け入れなかった事が滅亡を招く結果となったね。嬴政は呂不韋がいなかったら趙に人質のままだったかもしれない。嬴政の実父は呂不韋だという噂もあるがどうなんでしょうね。荘襄王/嬴異人が飛ばされてしまったのが悲しいとこです。)

 

 

華流ドラマ
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